先日の本(藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』(2020年5月、筑摩書房))が読み途中でしたので、読み切ったうえで感じたことをまたお伝えしたいと思います。
前回の記事をまだ読んでいない方は下記からどうぞ。
本の紹介のところで、筆者の息子さんは『バーバパパ』の色彩感覚に刺激され、本に塗り絵をしたそうです。なかなか素晴らしいですね。
いろんなジャンルの本が紹介されていたので、読み終わったらまた次の本が読みたくなりました~。
このままいい癖がつくといいな(^^)
「純文学を読まないと人間として成長しない」
(p.109)
筆者が出会ったある編集プロダクションの社長の言葉。
勉強のため、といってついつい自己啓発本や経済書、教養書などを手に取り勝ちですが、そればかり読んでいてはいけない、というのです。
なるほど~!と思いました。
そういえば、疲れたときにふと読みたくなるのは小説ですね。短編でも長編でもミステリーでもファンタジーでもなんでもいいのですが、どっぷり集中して入り込める世界がいい。要は心の栄養とでもいうのでしょうか。そういうものを心が欲しているときに読むといつのまにか言葉に癒されているのか、リフレッシュできる気がします。
「純文学」とは芸術性を追求した作品で、芥川賞系。
正直なことを言えば、「何だったんだ?!」と理解不能のまま終わっていくような、不思議な余韻をもたらすものがある気がします。読みにくいものもある。
これまで読んだ作品では…
- 井上靖『しろばんば』・・・小学生の時に読んでみましたが、なかなか入り込めず、断念しました(笑)。またチャレンジしたいと思いながらこの年まで読んでおらず…(^-^;
- 松本清張『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』・・・芥川賞作家だったんですね、知らなかった(失礼ですね!)…いや~、なかでも『砂の器』は素晴らしいと思います。ミステリーとして楽しめるものでもありますが、背景がいかにも深く、考えさせられるような内容でもあり、ドラマ化もこれまで何度かされて、つい見てしまいますね。
- 小川洋子『妊娠カレンダー』『博士の愛した数式』・・・どちらも切なくもおもしろい作品でした。『妊娠カレンダー』では最後に取った母親の行動が最高にウケて、その表現もブッ飛んでました(笑)。『博士の愛した数式』では数字に対する独特の想いというか、その世界観が面白過ぎです。
- 町田康『きれぎれ』・・・がんばって最後まで読みましたが、文体が長かったりリズムがつかみにくかったりととにかく読みにくく、ほとんど理解不能でした…(^-^;
- 吉田修一『パーク・ライフ』『パレード』『悪人』・・・母校が同じなだけでなんとなく親近感があります。全体的に読みやすく、それでいて心理描写が細かいというか、すごい人です。ほかのをまだ読んでいませんが、この3作品でもジャンルが全く異なり、『パーク・ライフ』は爽やかな感じで、『パレード』はまさかの展開に驚き、『悪人』はテーマが重く、深く、ずーんと見えない海に沈められたような感じがしました。
- 川上未映子『乳と卵』・・・本屋で手に取っただけですが、ざっと目を通したら「。」がない…それだけでも衝撃的でしたが、関西弁も私には読みにくく、結局買いもせず、借りもせず、読んでいません(^-^;
まだ書ききれていませんが、芥川賞作家の話はこのくらいにしておいて、話を「純文学」に戻しましょう。
「純文学」は芸術なので、作者の言葉の美しさや表現の巧みさ・独特さなどに共感できるかできないか、というところで読みやすいか読みにくいかがわかれるんだと思います。
絵や音楽でも理解しにくいもの、共感できないものってありますよね。
それと同じで、本にも多種多様な表現があって、世界観があって、それを良しとするか否とするかは個人が判断してよいんだと思います。絵でいうと色の使い方やタッチ、雰囲気など。対象が同じでも、表現方法が違うと好みがわかれます。
「純文学」をつまらないという人もなかにはいるようですが、それは自分が共感できる作家にまだ出会っていないだけじゃないでしょうか。一括りに言っても、いろんな作風がありますから。たとえ理解しにくい作品に出合ったとしても、それはそれで面白いことですよね。生身の人間でも共感できる人や価値観の合う人ってそうそういるものではないです。むしろ「何だこの人は?!」というくらい不可解なほうがおもしろかったりします。(なかには本当にわからなくてつまらないものもありますが…(^-^;)。まぁすべてのもの、すべての人を理解することなんてとうてい無理なので、本を読むことでいろんな人の感覚や考えを知るきっかけになればいいなぁと思います。その結果、感性や考えが磨かれて成長できる。そうありたいですね。
「名作が読書嫌いを生む?!」
(p.102)
筆者は小学生の時、課題図書でルナールの『にんじん』やヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んだのですが、まだ本を読む習慣がない中でこの2冊を読み、暗くてさっぱりわからないためにその後20代くらいまで本を読む気力をそがれ、「読書習慣を失った」と言っています。
そして後に児童文学評論家の赤木かん子さんにその話をしたら、ひとこと。
「そりゃそうよね、あれ、面白くないもん」
私の心の中の反応。
「ひゃ~!そんなこと、言っていいの?!」
「いや~、同じこと感じてくれてる人もいるんだ~、よかった~!!」
驚きと安堵が同時に生じたと思います。
だって名作といわれるもの、批判されるわけがない、とか、批判してしまうと自分の力量不足のせいや鈍感であるが故の言い訳に聞こえてしまい、なんだかみじめになるとか、「名作が読めない=よくないことだ」という感覚すらこれまであったので、そんな批判をまして名の知れた大人の人がしているのを知ると、安心してしまいました。
でも、あるんですね。名作でもつまらないものって。
私の場合、前述の井上靖ですね。『しろばんば』。小学高学年だったと思います。
分厚い本は大作だから面白いだろうと期待して選んでみたものの、内容が意外と地味で、設定も大正時代の静岡、伊豆の山奥。主人公は同じ小学高学年ではあったものの、男の子。あまり共感するものがなかった。それこそ、今私は三重県に住み、3世代家族で暮らしている。環境が変わった今、またぜひ挑戦してみたい。
それで藤原和博さんが息子への本選びの体験を通じて思ったこと。
子どもが面白いと思うポイントは、本の世界に自分自身を投影できるかどうかなのだ。だから、名作がすべて悪ではないのだが、私が出合った2冊の名作については、その世界に私は入り込めなかった。
名作には申し訳ないが、児童期に名作ばかり触れさせても、必ずしも読書の習慣が身につくとは限らない。場合によっては、私のように、読書を毛嫌いする子供を生み出す結果にもなる。
またまたなるほど。ということは、共感できるものがないと、自分の投影先がなくて入り込めないのはもっともだということでしょうか。これまたひとつ安心してしまいます。
さて、長くなってしまいましたが、結論、大人も子どももどんなジャンルのモノでも好奇心のままに読んでみるといい。
そんなところでしょうか(笑)(^O^)/