当塾では、『論理』という教科名で時間割を組んでいます。
2022年度から高校の新しい学習指導要領で、「論理国語」、「国語表現」、「文学国語」、「古典探求」という選択科目が出てきます。今後は、「論理国語」と「古典探求」を履修させる(選択させる)高校が多くなるのではないかと言われています。
これについて評論家の間では「文学国語」を扱う学校が減る、文学を軽視する傾向がある、などの声が上がっています。
ではここで、私たち教育サービスを行う者は、どう対応したらよいのでしょうか?
できる最善の努力をすればいい
科目が分けられたといっても、まったく文学が消えるわけではありません。
日本が世界的に見て弱い学力、つまり論理的思考力やそれに基づく主張する力、戦略的な討論力などは、確かに強化するべきところで、それらを国家的な枠組みで引き上げようとする試みも必要です。
長年危惧されてきたことが、ようやくそれを取り払うべく国が実現しようとしている。これはこれで評価するべきことだと思います。
ただ、なかなかバランス良くはいくものではないですよね。
別に国の政策を擁護するわけではありませんが、何事も出る杭は打たれるもので。
ひとつ特化して進めようものなら、触れる時間の減るものもひとつくらいあるのでは、と思ってしまうのです。
ではどうしたらよいのか?
できる限り全部やってしまってはどうでしょうか。
そういうと現場の方々からは怒られそうですが、高校の方針として、授業量を増やしてでも全部やる。それだけのことです。
それでも時間的に難しいこともあるでしょう。
難しい中で、現状では学校では読書の時間を増やしたり、国語の時間に古典を読んだりと、学校もいろんな対策を取っているし、学生はいろいろな機会を得て、本を読む時間を与えられています。
私たちは立場としては、大学入試対策としてどうすべきか?ということを指導してくのはもちろんですが、ひとりの大人として、ちょっとした人生の先輩として、普段から本を紹介していく。人物を紹介していく。話に出してみる。そういう引出しを作ることは、教育にもいいことですが、何より自分自身が豊かになるので、考えるだけでも楽しくなってきます。
ということで、大人ができる最善のことをやってみたらどうでしょうか。
とにもかくにも、本を読みましょう。
教育の場は学校だけではない
学校で授業方針が変わったとしても、家庭で親子と共有する時間が変わるわけではありません。
それなら親子で本を共有してみるとか、親がまず文学を読んでみるとか、できることはたくさんあると思います。
どんなにつまらない本でも、「あれはつまらなかった」という会話を生むことはできます。
映画でもテレビでも音楽でもそうですよね。いいもの、悪いもの、好きなもの、嫌いなもの、たくさんありますが、「あれよかったよね~」なんて話には出てくるものです。
その対象に、本が出てくる割合を増やす努力を、親が、社会人が、人生の先輩たちがするべきなんじゃないかと思うんです。家庭だけでなく、地域社会の中で、人が、本について発信していく。
「論理国語」が必要とされているのは、時代の流れなので仕方がないところはあるでしょう。でも、それで文学に親しむ時間が減るのでは?と危惧するのではなく、足りないところを補うように動く、働きかける、ということが大切なんじゃないか、と感じました。
この「論理国語」と「文学国語」の問題については、様々な著名人が意見を述べているので、これからたくさん本を読んでみようと思います。その紹介や感想は、また第2弾として次の機会にお話させてください。